明日も平日講習

 昨日から立ち稽古をしている。台本を手に持ってだが。今日は一部手放せる役者もいた。
 舞台は教室の設定なので、机と椅子が4脚のみ。今日借りてきてそろった。
 照明を考え始める。今回から、吊り方を変えたいと思っている。正面に舞台と平行に鋼管を吊っていたが、これを、客席両脇に舞台と直角に吊ってみたい。フロントライトのようにするのだ。そのためにはまず鋼管を買ってこなければならないが、寒くて嫌なのである。こうすれば客席をもっと下げられる(広げられる)と思う。もっとも今回はPTA評議員会とかちあっているので、教員は誰も観劇できないのだが。…自分は、どうすればいいんだろう。
 
 前に「高校演劇」は学校の教育活動だから、非教育的、反社会的な内容の芝居はできないと書いた。しかし、実際には、友人を殺してしまう話とか、不良たちの暴力が勝つ話とか、女子高生が自ら売春に身を投じる話とか、不道徳な結論になる話がいろいろある。これらは、不道徳を奨励しているわけではないだろうが、見方によっては反発を呼ぶだろう。現実世界ではすべてがハッピーエンドになるわけではなく、厳しい現実をそのまま舞台にのせて観客に見せ、観客の中に現実に対する怒りや抗議を生みだそうとするものなのかもしれない。平和的な解決に慣れた観客に衝撃的な現実を突きつけるやり方は効果的かもしれない。自分は好きではないけれど。
 怒る人、悲しむ人が舞台上にいて、観客はその人に感情移入することによって怒り、悲しむという形の方が自分にはなじんでいるのだろう。また、そういう形をとらないと、その舞台が不道徳を奨励しているように見えてしまうのではないかと心配になる。
 
 地区大会からブロック大会まで、沢山の講評をいただいて、さあこれからどうしようかと考えているが、「じゃあ、シンプルな、活動的な、陽性の(明るい)、言いたいことが明確な芝居を作ろう」と考えるなら、それはもうダメになる一歩を踏み出しているのではないかと思う。いや、講師の方々の見方は正しいのでしょうが、その最大公約数の線を行ってもダメなのではないかと思う。「自分の芝居には何が足りないのか」と他の上演の良い所をどんどん取り入れていけば一番良い芝居が出来るか、というとそんなことはない。結局自分の信じる所を行うのが一番良いのであって、たとえば発想が小説や映画や漫画の方に近いとしても、それがかえって、いままで見たことの無いような面白い芝居につながるかもしれない。そういう可能性を追求する方が楽しいのではないか。むしろ「何を削っていったら純粋に自分だけの方法、表現になるか」という行き方が正しいのではないか、と思ったりする。
 
 センターテストの自己採点結果がまとまり、大手進学塾は早くも集計から各大学の合格可能性判定基準設定まで進んでいるようだ。3年生は昨日今日と小論文模試を受けている。多くの生徒が2次試験で小論文を必要とする。これから全科目の教員あげて添削指導に当たることになる。