雑感 2021年11月12日

 勤務一ヶ月を経て初給料。現金支給である。金額が昨年の半分なのは勤務時間が半分だから当然である。ただ何もせず家に居ては銀行預金が減っていくだけなので稼ぐことは大事である。若い人相手に文章の添削指導、ついでに面接指導をするので人と会話する機会になるのは良い。

 先日、日曜日だから七日にもみじ公園に行った。人が多くみんなマスクをしている。

紅葉は予想より進んでいるように感じた。二回りして替えるときにかつての同僚の方に呼び止められる。同じ町内(町内会は違うが)なので図書館で会ったりもするのだが、やはり奇遇である。また自分の調べていることについて話し込んでしまう。

 写真を載せるが、その後雨風があり、今はもっと変わっているだろう。

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 自宅の庭は赤くなっている。ピラカンサスの実がどっさりついている。この木は幹が大分割れてきているので、もしかして最期の輝きを見せているのではないか、などと心配したりする。大きく伸び放題の灯台躑躅の葉がすべて真っ赤に染まっている。南天の実がそこそこ赤い。

 

 総選挙の結果。自民党幹事長の選挙区落選からの人事。サッカー日本代表の対ベトナム戦。将棋竜王戦第4局などつらつら観ながら過ごしています。

 

 

 

観劇 『グッドピープル』 川西町フレンドリープラザ

 23日(土)川西町フレンドリープラザにて『グッドピープル』観劇。

 サヘル・ローズが見たくてチケットを買った。司会とかルポでは見ているが、役者としては初めてである。

 

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 アメリカの翻訳物だなあという感じで見ていた。台詞劇である。

 以下、あらすじを書きますのでまだ観ていない方はご注意。

 内容は、現代アメリカの問題総ざらえといった感じではあるが、貧富の格差が最大の問題として書かれている。貧民区に暮らす人々は、安い給料を得るため必死で職を探す。生活保護とか社会保障制度が無いのか、滑り落ちた人々はなかなか底辺の境遇から這い上がれない。親ガチャなんてものではない。知的障害児(といっても30代)を抱えたシングルマザーのマーギーは、その世話のためもあり、勤務時間にたびたび遅刻することで1ドルショップのレジの仕事を失う。悲惨な感じだが、近所の奥さん方は慣れっこでへらへら話し込んでいる。『欲望という名の電車』、『ガラスの動物園』などを思い起こさせる内容である。

 マーギーは、この貧民区から脱して医者になった高校の同級生マイクが医院を開いているというので、仕事をくれるかもしれないと思って訪ねて行く。上流階級に成り上がった(もちろん努力して)マイクは、かつての貧民区の生活を忘れたようである。自分は努力して抜け出した。それを強調されれば、抜け出せなかった自分は怠け者だったということになるのか。今のマーギーとはあまり関わりたくもないようだ。仕事はもらえないが、食い下がって、マイクの家でのパーティーにお邪魔することにする。そこに来る誰かは仕事をくれるんじゃないか。友達仲間は、マーギーの子は2ヶ月つき合ったマイクの子だと言ってやれとそそのかす。

 パーティーの前日、電話で子供が病気だからパーティーは中止という連絡が来る。マーギーは嘘だと思って、当日マイクの家にドレスを着て押しかける。

 しかしパーティーは本当に中止で恥をかくが、マイクの妻ケイトから夫の昔の話を聞きたいと言われて居座る。次第にマイクの過去―隣町の黒人の子をボコボコに殴り倒したことなどを話し―ケイトは黒人である―、マイクが怒ってしまう。あたりまえだ。そんな昔のことを暴き出すような失礼なことはすべきではない。しかし、底辺にあえぐ者は藁にもすがって生きようとする。善人では居られないのだ。子供のことを言ってしまうが、マイクの妻は家庭を壊そうとするようなマーギーを拒絶する。

 マーギーの言動は、貧民区の生活の中にある無恥や狡さ、嫉妬と羨望によって塗り固められている。しかし、人間の真情は残っている。貧民区に帰ったマーギーは近所衆とビンゴ(毎週教会で?やっている宝くじのようなもの)に運を求めて興じるのだった。

 

 サヘルの演技は良かったと思う。劇中の人格にも合っていたかと思う。マーギー(戸田恵子)やマイク(長谷川初範)の演技が失礼ながらいささか一本調子に感じられたのとはひと味違っていた。一幕は主婦連(木村有里阿知波悟美)に、二幕はサヘルによって支えられていた感じだ。

 ただ、原作で白人と黒人であるのが、舞台上では日本人とイラン人なのはどうか? 原作のニュアンスが出せたのだろうか? 幼なじみの奥さんが黒人で、才色兼備で、大学教授の娘であるという設定。プア・ホワイトの目に彼女はどう映っているのか。アメリカ人には感得できても、日本人には分かりづらいニュアンスがあるのではないか? この作品、アメリカ人で、映画で(細かい表情付で)見てみたいと思った。席が少し遠いこともあって表情が見えなかったので。

 

 舞台はセットを回転させての転換が主だが、それ以外にも物の出し入れがあり、回数も多いので少し煩わしい感じがした。

 舞台端にマイクがあって台詞を拾っていたようだ。

 

 前に勤務していた所の演劇部員で、卒業後放送界(裏方)に入った女子が、サヘルと友達だと言っていたのを思い出す。今何しているかな。

散歩 小白川天満神社と馬見ヶ崎川沿いの紅葉した桜並木

 昨日の散歩。小白川天満神社に寄る。ここは日本三大天満宮の一つであるという。江戸時代、家光に選ばれて、一は太宰府天満宮社領二千石。二は北野天満宮、五百石。そして二百七十石の小白川天満宮であるという説明がある。明治以降は村社、郷社となった。前二社のように絶え間なく人が訪れるような神社ではなく、ひっそりと静かである。不遜ながら、日本で三本指に入るような神社とは思えない。

 参道入り口に社名を刻した石柱があって、沖縄県知事大味久五郎の名がある。大正七年のものだが、wikipediaによれば、彼が沖縄県知事であったのは1914(大正3)年6月から1917(大正6)年4月までである。彼は加賀藩士の子で内務省の警察官僚を主に各県を歴任。沖縄県知事になる前に山形県事務官・内務部長であった。40歳代初めの頃である。沖縄ではあまり評価されず、依願免官で退職している。どういういきさつで前任地の天神様に石柱が立てられたのかは分からない。

 

 天満様の帰途、堤防に沿って戻る。馬見ヶ崎川の桜並木が紅葉している。もう陽の傾くのが早くて影が長い。

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 下はジャバ(市営プール)に渡る橋が写っている。

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 行きは登りで帰りは下り。小学生が下校する頃に帰る、一時間半程の散歩だった。

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)番外5

人口の推移について

 岩波新書『植民地朝鮮と日本』(趙景達2013)を読んでいて、ふと考えた。

 同書では医療と衛生について、日本人と朝鮮人の罹患、死亡率などの差に関して、

「この数字は、近代の「恩恵」が宗主国民と植民地民とで、いかに不平等に付与されたかを物語っている。それは、絶対的貧困の問題であるだけでなく、朝鮮人に対する医療行為自体が暴力的になされた結果でもある。たとえば、種痘などは問答無用で行われる場合があった。また、伝染病治療では、朝鮮人医療機関や隔離施設は日本人のそれに比べひどい状況にあったため、行くのを嫌がる朝鮮人が多くいた。官立・道立病院などは、人口比的に見れば圧倒的に日本人が行くところであった。

 ところが、植民地期、朝鮮人の人口は増加している。公式統計によれば、一〇年に一三一二万人であったものが、四一年には二三九一万人となる。実に一・八二倍になるが、一〇年の統計には不備があり、実際は一七〇〇万人ほどと見られる。いずれにせよ、三〇年くらいで一・四倍ほどに増加している。これは、異常な出産率の高さによるものである。二〇世紀の植民地では、一般にどこでもみられる現象であるが、近代化の「恩恵」などではない。生活不安は、将来の社会保障のために、かえって子だくさんの家庭状況をもたらすのである。」と書いている。

 

 暴力的に医療を施す? 種痘を強制することが暴力なのか、良く分からない。

 医療もタダではないので、治療費が払えなければ病院には行かないだろう。

 20世紀の植民地…それはもう日本の統治した朝鮮、台湾、南洋くらいではないだろうか? それ以前の例ではどうか。オランダはインドネシアを300年以上植民地にしたが、人口増はあったか? 現地の民への医療はあったか? 「20世紀植民地の一般的傾向」と言うのでなく、「近代化する国家に一般的な特徴」と言えないのか?

 人口増は近代化の恩恵ではなく、生活不安から将来のために多くの子供を産んだ結果である? つまり、植民地となったがために生活不安が増大したと…。

 人口増加は、[植民地下の生活不安から、将来子供に面倒みてもらおうと、出産率が以上に高まった]せいなのか、[出産率はそれほど変化しないが、死産率や幼児死亡率が大幅に減少した]結果なのか。それとも両方相俟っているのか。

 

 あらためて統計年報を見てみた。毎年の出産(生産+死産)の数字がある。明治44(1911)年の生産は27万7千473人で死産は5千243人である。それぞれ千分比で人口の20.06、0.38ほどである。(この辺は丸めた総人口で計算しているので厳密に正確ではない)2%の出生率は次第に3%に近づいてゆく。

 20年後の昭和5(1930)年には、総人口1千969万人。前年から91万人の增加。生産は76万602人、死産は3千610人(対総人口の千分比は、それぞれ38.63と0.18である。生産は1.9倍、死産は半分になっている)。だが生まれた人数より総人口の増加の方が多い!?

 子だくさんになっていく理由は、死産の半減、乳幼児死亡率の低減による影響の方が大きかったのではないか。ちなみに生産率が最も高いのは大正12(1923)年で、千分比は40.68である。

 

 人口統計を見ていて、気付いたことがある。

 毎年の人口増加は、大正2(1913)年の104万人増という異常な数字を除けば、大正5年までは30万人台が続いている。その後、大正時代は毎年10万人台の増に過ぎず、災害の年には8万、4万、1万という年もある。ところが、大正14(1925)年や昭和5(1930)年、10(1935)年は国勢調査があり、綿密な調査の所為か、人口が跳ね上がり、90万人以上の増加をみる。つまり、その前の5年間に統計から漏れていた人がいるということだ。

 昭和15(1940)年以降は、80万、90万、160万と急激に増加してゆく。

 

 今回気付いたのは、この毎年の人口増加数と出生数、死亡数が合わないことである。出生数から死亡数を引いた人数が純増加人数だと思うのだが、総人口はその純増数と合わないのである。初め、この相違について混乱し、面食らってしまった。(死亡数は対総人口千分比で20台になっていて大きな変動はないようだ。)

 大正9(1920)年までは(8年を除く)、純増(出生-死亡)数より総人口増加数の方が格段に大きい。これはどういうことか? 総督府統計年報の緻密さは驚嘆するほどであるが、この数字の不整合はいかなることか。

 ただ、大正10年以降は逆に、純増(出生-死亡)数よりも総人口増加数が少ない年が続いてくる(多い年もある)。

 

 考えてみるにこれは、出生・死亡の人数はおおよそ正しいとして、20代、30代…と各年代の人数が増えているのだろう。つまり、前には統計に漏れていた人々が新に入ってくるということが、日本統治期前半には多かったということなのだろうと推測する。

 この辺は、戸籍がどの程度整備されていたのかという問題もある。

 一方、日本統治期後半になると、統計に未掲載だった人は減った代わりに、掲載されていた人が消えるという場合が多くなったのではないか。それは頻発する災害で行方不明になったり、人口の移動が激しくなり、把握するのが難しくなったということかもしれない。住民票のようなものがあったのかどうか。ちなみに朝鮮人の戸籍は、内地に移住しても朝鮮半島内に置かれていた。

 このことについては、まだ釈然としない。何か誤解しているのかも知れない。

 人口については下記のページでも触れています。

 

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)番外 2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その5 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)

 

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)その20

 産米増殖計画と水利組合についての現段階の認識

 

 産米増殖計画が飢餓輸出を招来し、水利組合費負担が貧窮農民の内地への流出を招いたという説について。今の認識をまとめてみた。誤認もあるだろうし、詳しい数値や法令については、なお確認の必要がある。

 

人口増加の影響

 併合後、朝鮮の人口は著しく増加していった。これは急速に近代化する国家に普遍的に見られる現象だろう。明治時代の日本も同様だった。誕生した若い朝鮮人が成長し、就労年齢に達し始めた時期が昭和時代であろう。

 この人口爆発は第一に将来的な食糧不足を惹起した。その対策として産米増殖計画が進められた。それはある程度成果を出し、内地の米需要にも対応するため移出が行われた。だが米価の変動調整が困難で、内地農家保護のため移出を止めることもあった。

 第二の影響は就職難として現れた。毎年数十万人ずつ増加する人口は、農業が吸収できる限界を超え、農家から溢れ出し、余剰人口となった。

 併合後四半世紀の昭和10年代半ばには、併合後に誕生した世代が家庭を持つようになっていた。農業従事者は毎年30万人程度增加していた(農家戸数約300万戸、農業従事者1千700万人、1戸当り人数5~6人で微増、あるいは停滞している)が、同時期の総人口增加ははるかに多く、毎年100万~150万人が増加して、2千300万~2千550万人であった。即ち多くの人が離農せざるを得なかったことになる。農村には、急増した若者らを養えるだけの耕地がもう無かった。

 工業化には未だ遠かった朝鮮には、彼ら離農者の就ける職業も無かった。水利事業の土木工事の土方となるか、田畑を持たない雇傭者になるか、山林に入って火田民となるか、都市に出て土幕民となるか、半島外に移住するかである。こうしてこれらの水田から切り離された人が急激に増加していった。

 半島南部の各道からは内地へと人が流出したが、まだ普及途上だった普通学校も満足に修了していない場合には、低賃金労働しか職はなかった。それは差別というよりも必然だった。同じ日本国民という建前ながら、実態はアメリカ大陸へ移住した日本人と同じことである。

 

自然災害の影響

 朝鮮半島の自然災害を、総督府の「施政三十年史」付録年表から拾うと、二、三年に一度は旱害、豪雨、風水害に見舞われている。7月は豪雨、9月は台風である。大正14(1925)年の7月などは一か月間豪雨被害が続いた。人的被害も少なくない。これらの被害による、米の作付面積、収穫高の変動を見なければならない。

 例えば昭和14(1939)年は未曾有の旱魃で、米の作付面積は123万町歩で前年より42万町歩減、収穫高は1千435万石で1千万石減、1反歩収穫高は1.16石で、0.3石減であった。これは貧窮農民の離農を促す要因にもなっただろう。この年の人口増はわずか15万人に止まったが、農家戸数は2万9千戸減少、農業従事者は12万9千人近く減少した一方この年、在日朝鮮人は前年より16万人増加し、1.2倍の96万人ほどになった。これ以降、毎年20万人前後の増加を見る。すなわち農業インフラ未整備の朝鮮にあって、風水害、旱害は在日朝鮮人增加の大きな要因であった。

 地主・自作農民にしても、この天候に左右される不安定な農業から離れ、土地を売ってそれを資本にして企業家へと転身する者が少なくなかっただろう。こうして自作農が減少し、会社、工場、金融業などの経営者が増加していったのではないか。

 また、大規模水利工事の為に「土地収用令」によって半ば強制的に土地を寄付させられたり低価格で買収される(これは日本人地主でも同じだが、朝鮮人地主の場合は先祖代々の土地ということで抵抗は大きかった)ことも考慮される。この土地収用令こそが、朝鮮の人の恨みを買う大きな要因になっているのだろう。

 

 灌漑設備が完全に整うまでは、このような状況が続いただろう。この大工事、難事業に着手し、短期間のうちに進展させたことは英断であるが、その費用負担は大きかった。総督府予算以外に、日本政府からの補助金、朝鮮殖産銀行の融資があった。朝鮮殖産銀行は必死に内地からの出資者を募った。日本の国家予算(すなわち日本国民の税金)、民間出資者からの資金によってこの事業が出来たのだ。

 もちろん水利組合員の負担も大きい。だが、受益者である水利組合員たる地主が、「公課を小作人に転嫁する弊習」のまま、組合費を小作人に負わせたのは遺憾なことだ。しかしそれを総督府が(法的に)禁じ、取り締まることは可能だったか? (大災害時に小作料の軽減、免除を通知したことはあったが。)

 地主や舎音は恣意的に小作人を替えることができるため、高率の負担に堪えられず文句を言う者は小作地を追われただろう。代わりはいくらでもいただろうから。

 

まとめ

 産米増殖計画=水利組合事業の功罪を見れば、まず朝鮮の経済の基盤である農業を、安定した発展軌道に乗せるうえで必要不可欠なものであった(いずれは誰かがやらざるを得なかった。そのとき融資してもらうのは中華民国から? ソ連から? 英米から?)のは確かだ。灌漑事業の成果が収穫量の増大として、耕作農民の収入安定、増収、生活安定に至る前に、本来負担すべきでない組合費負担や自然災害被害に耐えがたく、離農してしまう者も多かっただろう。日本が戦時体制へと変化していったことの影響も大きい。しかし、そのことを以てして、この朝鮮農業を一変させ、将来に渡って朝鮮経済を支えることになる基盤整備事業を「収奪」と非難するのは筋違いではないだろうか。

 

 自然災害のあるたびに天皇からの救恤金が下賜されている。昭和9(1934)年には4万7千円、14(1939)年には10万円。これは朝鮮総督府天皇の直隷であったことによるのだろう。(ちなみに旧支配者である李王家は何か国民のために救恤金のようなものを出しただろうか?)

 

 以下の記事を参考にしました。

朝鮮人移住対策ノ件 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館 (ndl.go.jp)

東亜連盟戦史研究所 「日帝が朝鮮米を収奪した」という反日史観を粉砕する朝日新聞記事 (fc2.com)

1945年以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その19

産米増殖計画 その4

水利組合 その2

 ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源1』明石書店2012、原書は1989)によると、全羅北道の「井邑郡で李承晩の組織「独促」の支部ができたのは遅くとも一九四六年三月だが、その指導部のひとりが朴明奎〔音訳〕である。彼は一九四〇年当時、井邑水利組合の組合長の座にあり総督府がつくった道評議会の議員でもあった。」(下線は筆者)とある。

 昭和4(1929)年の『朝鮮の水利組合』には「井邑水利組合」の記載は無く、高敞郡興徳面・星内面、井邑郡古阜面外七箇面を区域として「古阜水利組合」があった。蒙利面積は4千323町歩であった。昭和4(1929)年以降の資料が無いので、これが分割されて井邑水利組合になったものか、新設されたものかは分からないが、朝鮮人有力者が組合長である場合があったことが分かる。

 『水利事業をめぐる「公共性」の位相ー植民地期朝鮮・富平水利組合の事例分析ー』(松本武祝2000)からの孫引きだが、「宮嶋論文の事例分析によると、時期を追うごとに水利組合職員の高学歴化が進み、朝鮮人比率が増大している。」

 

 水利組合の組合員とは

 松本前掲論文によると「組合員(すなわち組合区域内の土地の所有者)」「小作農民(すなわち非組合員)」ということである。地主が組合員で、組合費を負担するのである。

 

 水利組合と水路契・水利契

 松本前掲論文によれば、「富平水利組合」には「25の水路契が置かれていた(中略)ひとつの水路契が担当する受益面積は平均144町歩であったことになる。また、ひとつの水路契あたりの里の数は平均1.4となる。」

 富平水利組合は、京畿道の富川郡(桂南面外三箇面)、金浦郡(高村面、陽西面)を区域に大正12(1923)年4月に、灌漑、排水及び水害予防を目的に設立された。大正14(1925)年3月に竣工。蒙利面積は4千120町歩。

 「朝鮮の在来水利組織は概して小規模であり、植民地権力が導入した大規模水利施設とそれに対応する制度を受容する基盤とはなりえなかったのである。」

 つまり旧来の水利契を包含する形で大規模な水利組合が作られたということであり、各々の水田に及ぶ末端の水路は、従来の組織(水利契)を土台にして新に組織を作り、水利工事を行ったということだろう。

 

 「水路契に関して、(a)「土取土捨」など支線水路の維持管理を担当するための組織である。(中略)(c)前者資料の陳情書の送り主が「水路契員・当地地主一同」となっていることから推察して、水路契員は小作農民(すなわち非組合員)をも含む地先の耕作農民によって構成されていた。」

 ここの水路契員の解釈については、後に記す「土地改良契」の実情からして、かならずしも小作農民とは断定できないのではないか。水路契員である地主+それ以外の地主一同という解釈で矛盾しないだろう。

 なお、松本氏は同論文中で「水路契」と「水利契」を混用し、同義で使用しているようである。「つぎに契長に関しては、「地方有志」が水利契長に就いているケースが確認できる。28年に水利契長に就任し同年に同契が25契中「成績最優秀」と評価された尹原重は(以下略)」

 「水路監視人は4月から8月すなわち田植えから収穫の時期に限って水利組合が雇傭する臨時雇員である」名簿などから「ひとつの水路契にひとりの監視人が配置されていたと考えるのが自然であろう。」「灌漑用水の排水および洪水防止が主たる業務であった」「本組合が、水監視人の成績評価を繰り返し実施していたことがわかる。」ここでも監視員という混用が見られる。

 

 『朝鮮の契』(善生永助1926朝鮮総督府を引用する。(下線は筆者。漢字は新字体になおした)

 「契の中には既に組合に名称を変更したものもあり、近来内地の産業組合および報徳社の如き制度を取り入れ、内地人官吏の地方行政事務に携はるやうになつてから、契の規約の如きも次第に内地流に変化し、体裁の整つたものが少なくないやうになつて来たが、多くの契は形式的の規約などはなく、一定の不文律が遵守されて居る。大典会通には新廛新契を組織する場合には官の允許を受くる規定があるが、李朝末葉に至つてこの制度は紊れ、契は各地方に於て自由に設立され、従つて各種の弊害もこれに伴つて発生した。そこで併合以来、総督府に於ては、地方庁をしてその監督取締に当たらしめ、或種の契に就いてはその組織を奨励し、殊に咸鏡北道の如きは明治四十四年道令を以て、各道に洞契の設立を命じ、一面府郡をしてその主旨徹底に努めしめた結果、全道に之が普及を見るに至つた。また牛契及び農事改良契の如きは、本府及び地方当局の指導保護の下に全鮮至る所に設置され、現に良好の成績を挙げて居る。」

 契が分類され、その名称が列記してあるが、「洞契」は「洞里の部落住人を以て組織し、各自部落の土木、衛生、産業の助長、生活の向上を図り地方自治を行ふ」ものである。「水利契」という名称は無いが、「氵伏契溜池契堤堰契」はそれぞれの維持管理、修繕を行うもので、これらを総じて旧来の組織、「水利契」と呼んでいるのかもしれない。

 

 旧来の契とは異質な、複数面にわたる大規模なものが「土地改良契」である。慶尚南道昌寧郡の「霊南水利北部土地改良契」と「霊南水利南部土地改良契」とが掲載されており、いずれも大正14(1926)年に設立された。

 「土地改良契」は、下の表でわかるように「水利組合」の事業に付随したもので、水利組合と同時に計画され、各里の水田にその利益を及ばせるためのものであった。土地改良契の構成員はその区域の土地所有者すなわち地主である。事業費は契員が分担する他、有志の寄付金、国庫の補助金による。なお水利組合費負担と重複するのかどうか、その関係は今わからない。地主の負担が過大になれば、当然小作料に転嫁せざるを得なかっただろうが、改良工事の結果、反収が大幅に増加すれば小作人の収入も増えることは確かである。

 (追記)善生永助『朝鮮の小作慣習』(1929)によると、小作地の負担の内、地税及び諸公課は「普通の場合に於ては、その納期に応じ一般土地所有者たる地主に於て当然これを負担すべき義務があるが、実際に於ては、地税及び諸公課は京畿道及び西北鮮地方の一部を除く外は、概ね小作人に転嫁され、又は地主小作物等に負担し、地主は単に形式上自己の名義を以て納入するに過ぎざる有様である。尤も地税を小作人が負担するといふことは新羅、高麗時代よりの公田制度の遺風であるが、李朝時代以来、今日の如く、土地収益の過半を地主に分配するやうな制度の下に於ては、地税及び諸公課を小作人に負担させるは決して公正な方法と称し難く、小作料の相当に高率なる上に地税及び諸公課を担税力乏しき小作人に転嫁させる結果、小作人の負担過重は痛ましきものあり、これが怠納も自然多くなる訳である。」

二、用水料及び水利組合費  水利組合地域内に於ける組合費は法律上、組合員たる地主の負担であるが、実際に於ては小作人に負担させる場合が多いやうである。旧来の用水料即ち俗称水税は定租の場合には小作人、打租、執租の場合は地主小作人の共同負担が普通であるが、中には水利組合費及び用水料を通じ全部小作人に負担させる地主もある。また水利組合費を全部地主に於て負担するもの及び地主小作人分担するものにありては、概して小作料が高率になって居る場合が多い。南鮮地方に於ては、農会費の如きものまでも小作人の負担として居るものが多いやうである。」とある。

 

 この事業の中で、旧来の田畑、水路や道などは潰れ地となり、新に区画整理された。なお大正14(1925)年7月は全鮮に大水害があったため、事業開始が遅れたとある。

 先に引用した京畿道の富平水利組合も、竣工前「1925年には、漢江の氾濫によって堤防が流出し、組合全域が浸水した。」

 

    霊南水利組合  霊南水利北部土地改良契   霊南水利南部土地改良契

設立  1925.2.21      1925.4.8          1925.4.8

区域  霊山面外3面  丈麻面  幽里 大鵬里 山旨里   都泉面 松津里 

                 東亭里        霊山面 月嶺里

                                            南谷面  成士里         

               霊山面  鳳岩里 月嶺里     

            桂城面  鳳山里

面積  1,032町歩     424町歩           244町歩 

経費  1,498,400円   120,000円          67,874.50円

            (反当り28.26円)      (反当り27.82円)          

契員          130名(設立当初144名)    ー

            (1人当り平均3町歩余)

            土地所有者ヲ以テ組織ス    同左

            (朝鮮人地主を含む)

事務所         慶尚南道昌寧郡南谷面南旨里  同左

目的          本契ハ霊南水利組合ノ事業計画ニ準拠シ土地ヲ改良シ

            開畓ヲ遅滞ナク実施シ農家ノ福利ヲ増進スルヲ目的トス

            (両契とも同様の規約である)

 

 慶尚南道の「霊南水利組合」は、昌寧郡霊山面外3箇面の区域に、大正14(1925)年2月に設置され、事業は翌大正15年11月に竣工した。蒙利面積は1千32町歩、事業費総額149万8千400円(反当り平均145円20銭)、組合費総額14万627円(反当り平均13円63銭)とある。

1945年以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その18

産米増殖計画 その3

水利組合

 

併合以前の灌漑状況

 併合期、朝鮮の水田(畓 )は、総面積の四分の三が「天水畓」で、降雨による水源に依存していた。そのため頻繁に旱魃となり、「三年一作」(満足な収穫は三年に一度)と言われていた。昭和3(1928)年8月の『大阪毎日新聞』記事「朝鮮米の宝庫 全州平野を見る」より全羅北道の状況を引用してみる。神戸大学経済経営研究所  新聞記事文庫)

 「全州平野における水田の約四割というものは 天水のみによる いわゆる白田であつて 農作の豊凶は 一に天候の順否にまつのほかないものである。残りの六割といへども堰堤その他により辛うじて水利の便を有するに過ぎない程度のもの 如何に農民が努力したとて 灌漑水がこの状態ではどうすることも出来ない。」

 米作の中心地である全羅北道にしてこのような状態だった。灌漑水路が引かれず、水田の高さより川や溜池の水面が低ければ、人力で「マットゥレ」や「ヨンドゥレ」などの用具(バケツのようにすくい上げるもの)を用いて揚水していた。水車は無かった。

(足踏み式の水車で揚水している写真が「釜山でお昼を」のサイトにありました。無断転載不可なのでURLを載せます。写真手前の人が操作している用具がヨンドゥレですね。共進会・博覧会 釜山 京城 韓国 日韓 (chu.jp))「朝鮮物産共進会8」、大正水利組合関連の頁。

 以前に存在した「堤堰」(=堰堤、溜池・小規模ダム)、「洑」といった灌漑設備も、李朝末期には荒廃していた

 『李朝後期の農業水利』(宮嶋博史「東洋史研究」1983)から孫引きしてみる。

 「中宗の代(16世紀前半)より四百年の間 一般の秕政に伴ひ 漸次荒廃に帰し 近頃迄残存せしもの 堤堰六千三百余 洑二万七百余を算したるも 其の大半は十分の用を為さず」朝鮮総督府土地改良部編『朝鮮の土地改良事業』)

 李朝後期18世紀の英祖、正祖代には水利の発展がみられたが、19世紀に入ってまた衰退したという(李朝水利史研究』李光麟1961)。堤堰の開発には国家の関与が大きく、国政の混乱によって堤堰は減少した。メンテナンス(山谷型の溜池に堆積する土砂の浚渫、堤の補修)が行なわれず、堤堰の用を果たさなくなり、廃棄されるのだ。

 洞・里単位の水利契で対処できる規模の工事ではなかったのかもしれない。

 

 宮嶋氏は韓国の南部、慶尚道全羅道の水利設備について、邑誌などの文献に当たり実証的な研究をしている。李朝における水利事業の程度には地域的に差があり、道によって設備の質、量が違っていた。古く新羅の地だった慶尚道は、その頃から農業に熱心で水利設備も多かったという。その傾向を近代に引き継いでいるという。

 

併合前後の堤堰・氵伏の修築状況

 総督府統計年報によれば、大正2(1913)年3月に、全道で3,735の堤堰と9,386の洑があった。これらの修築はほとんど行われず、明治42(1909)年に10ヶ所、43年に2ヶ所に過ぎなかったが、併合後は、明治44(1911)年に63ヶ所、大正元(1912)年に270ヶ所、2(1913)年に340ヶ所と修築は急増した。

 

水利組合の沿革

 水利組合の歴史について、朝鮮総督府土地改良部編『朝鮮の水利組合』(昭和4(1929)年)にはこう書いてある。(下線は筆者)

 「水利組合の制度は明治三十九年(光武十年1906)の水利組合条例に肇まり 明治四十二年(1909)の交 全北慶南等に二三組合の成立を見たりしが 条例の内容簡略不備にして 且 政府の保護奨励も亦極めて薄く 其の普及も少なかりしが 併合後 諸般行政の著しき発達に伴ひ 水利組合事業も勃興の機運に向ひしかば 大正六年(1917)旧法を廃し 新に水利組合令を制定し 組合の制度に一段の整備を加へ 以て時代の趨向に順応せしめたり 而して当初水利組合の設立目的は 灌漑、排水及水害予防のみに限定せられたるも 昭和二年(1927) 朝鮮土地改良令の制定に伴ひ 水利組合令に一部の改正を加へ 土地の交換、分合、開墾、地目変換其の他区画形質の変更又は道路、堤塘畦畔、溝渠、溜池等の変更廃置等の事業をも 組合の目的と為すを得るに至れり。尚 之と同時に 灌漑排水等土地改良を目的とする水利組合に在りては 当分の間 組合区域内の農事改良に関する施設をも行ひ得ることとし 組合の事業経営を容易ならしめたり。」

 「而して是等の施設は 農民の民度低く 且企業に対する経験に浅きのみならず 地方行政団体其の他の現状に鑑みるときは 極めて小規模のものを除きては 公共団体足る水利組合の企業に依るを最便とす。」

 

「水利組合」の管理下にあった水田の広さ

 『朝鮮の水利組合』によれば、大正6(1917)年、水利組合令発布以前に設立された組合は10箇所、その面積は2万3千522町歩に過ぎなかった。

 昭和4(1929)年には、朝鮮内127箇所に「水利組合」があり、蒙利面積は17万8千982町歩あった。これは当時の総水田面積およそ158万町歩の11.3%にあたる。

 水利組合の管理下にあった水田の、総面積に対する割合は1920年代にはかなり低かったことが分かる。

 

水利契と水利組合(それぞれの水田面積)

 極めて小規模の堤堰や洑は旧来の「水利契」によって管理運営されていたと考えられる。契については、以前紹介したように洞里の有力者が長となっている。

 「植民地期には水利組合という近代的法制度にもとづく水利組織が発達するが、それでも、慣習的な水利組織による灌漑面積が水利組合によるそれを一貫して上回っていた解放後の韓国において、慣習的水利組織は制度上、地方行政団体(市・郡)の管理下におかれるが、実質的には慣習的水利組織(水利契)が維持管理をおこなった。第2図に示したように、水利組合の後身である農地改良組合による灌漑面積が拡大していっている。しかし、市・郡管理(水利契および個人施設)の灌漑面積を上回るのは1980年代中葉のことであった。」(『韓国における農業水利組織の改編過程ー公共性と協同の相剋ー』松本武祝「歴史と経済」2008

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 第2図をみると昭和30(1955)年の水田総面積は120万㏊(町歩)。その内「水利安全田面積」(灌漑水田)は50万町歩強なので、全体の半分以下、45%ほどであった。この内「水利組合」を前身とする「農地改良組合」(1962年名称変更)の管理する水田は20万町歩強、慣習的水利組織(水利契)を前身とする「市郡管理組織」の管理する水田は30万町歩強である。水利組合の占める割合は思ったより少ない。つまり水利組合員となった朝鮮人農民の数も同様であろう

 

 昭和15(1940)年の『総督府統計年報』で「土地改良事業」の項目を見ると、灌漑水田面積とその経営別面積が載せてある。単位は町歩で1町歩以下は四捨五入した。

        灌漑畓  天水畓     水利組合 共 同   個 人   その他

 昭  9(1934) 1,147,308  538,629    204,127  563,793  327,871  51,517

 昭15(1940) 1,260,727  497,944    230,179  592,515  342,922  95,111

  増 減    113,419    40,685           26,052       28,722    15,051  43,594

 天水田が減少しているが、それ以上に灌漑田が増えているのは開墾、干拓によるのだろう。

 経営者が「共同」とあるのが旧来の水利契などであろうか。個人には日本人地主が入っているか。

 「水利組合」と「共同」の経営面積割合は、おおよそ「1:2.6」で、共同の方が多い。

 

 昭和15(1940)年の水田総面積はおおよそ175万9千町歩であり、灌漑畓126万町歩はその約72%であった。灌漑水田は昭和4(1929)年から昭和15(1940)年までの11年間で急速に拡大したことが分かる。

 

 第2図の灌漑水田面積割合、昭和30(1955)年の45%という数字は、半島南半分の大韓民国についてだけの資料である。

 敗戦前の38度線以南の水田面積は今正確には分からないが、127万町歩程度か? (ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源1』には、解放後に北朝鮮が農民に配分した土地の広さが載せてあり、それは94万3千820町歩である。単純に引き算すれば南側は81万5千180町歩になるが、南側が少ないのでは矛盾する。北朝鮮の数値はおそらく水田・畑・宅地などすべてを含めたものだろうから、水田のみに限ればもっと少ないはずだ。)

 昭和30(1955)年の韓国の統計では総面積も灌漑水田の割合も併合期よりかなり減少している。それは確実に朝鮮戦争の影響だろう。水利施設も大分損壊していたと思われる。

 日本敗戦後の混乱の中で、水利組合も朝鮮人の手に引き渡されたのだろうが、その後の運営、いろいろな融資、債権関係はどうなったのだろうか。

 

水利組合事業の担い手

 『朝鮮の水利組合』冊子は大半が組合の一覧表と水利事業の写真である。その写真に見る数々の大規模な干拓用堤防、灌漑水路、貯水池や動力揚排水機などは近代技術の粋であり、耕作地の拡大と反収の大幅増収を可能にしたことが納得できるのである。

朝鮮の水利組合 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

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 これらの事業を担ったのは誰かと言えば日本人大地主であった。

 昭和3(1928)年8月の『大阪毎日新聞』の記事「朝鮮米の宝庫 全州平野を見る神戸大学経済経営研究所  新聞記事文庫)を引用する。下線筆者。

 「不二全北農場の如きも、往古存在した貯水池の荒廃によって連年旱禍水害相ついだために、農民は疲弊の極各地に流亡し、大部分の地は蘆萩の繁茂に委せてあつたのを、明治三十八年藤井寛太郎氏によつて買収されたものである、自来この瘠薄荒廃の地に農業技術員を配置し、優良籾種の供給、自給肥料の増産改良、水利の改善等に鋭意努力したのであつた。其結果不毛の沼沢も大正三年頃には籾一石二斗内外の収穫を得るに至り、更に十二年後の大正十五年度には二石四斗の収穫を見たのである。米作収入の増加によって著しく生計状態を持ち直した農民は副業の奨励により一段とその経済状態を改善し得たのである。」

 

 上記内容は水利組合とは言えないが、併合以前、既に日本人大地主が朝鮮の土地を購入し、大規模な農業開発を行ったことがわかる。この全北農場は昭和の初めには1千2百町歩ほどあったので、耕作者も500人以上はいたのではないか。その多くは、朝鮮人地主が土地を売り払う際に在住の朝鮮人小作人が同時に雇われたということなのだろう。

 当時の朝鮮は地価が安く、小作料収入が大規模投資に見合う利率に相当するものだった。事業は反収の增加により農場耕作者の生活水準を格段に向上させた。

 

 「大正十四年以降四ヶ年間に国有未墾地の開墾に着手すべく貸付けられたるもの水田千七百町歩、畑千百町歩、公有水面の干拓を免許されたるもの水田一万二千町歩、畑六十六町歩という盛況である。」

 「全州平野における産米の増加は しかく役人の手を煩わさずに行われておるところに強みがあり真剣味がある。ほかでもないそれは内地人大地主の持つ勢力である。この勢力が全州平野を開拓し その農業を開発したのである。大正十四年末調べによる 千町歩以上の内地人地主を挙ぐるも

 一、五九九町歩 東山農事株式会社

 一、五七一町歩 石川県農事株式会社

 二、九七八町歩 熊本農場

 二、一二六町歩 右近商事株式会社

 二、二九二町歩 多木農場

 一、三七一町歩 細川侯爵家農場

 一、二七一町歩 不二興業全北農場

 一、一五二町歩 株式会社橋本農場

 というように八名を数える。五十町歩以上の内地人地主に至っては六十三名の多きに達する。これらの人々が農事改良の先駆となり、産米増殖の原動力となっておるのである。またこれらの農場こそは 明治三十六、七年 国情騒然たるころ すでに投資開発されたものであって 朝鮮開発史の一頁を飾るに足るものなのである。

 沃野二十三万五千町歩(筆者注、全羅北道の田畑面積。水田のみでは18万9千町歩ほど)、この一割八分に当る三万九千七百五十町歩が内地人によって投資営農されるのであるがこの地主たちは自己の収入を増やすために、寧ろ官憲よりも熱心に真剣に、農事の改良を図りつつある。それがやがて鮮人を導き 全北の米作をして長足の進歩発達をなさしめた。試みに総督府が発行する朝鮮要覧のページを繰って見よ。現るるものは不二農場村の写真であり、益沃水利の写真ではないか。また群山港に堆積さるる米穀移出の盛況が読者を驚かすではないか。これらはいづれも大地主が組織的に農業を経営するようになってからの産物なのである。」

 

 全羅北道23万5千町歩の2割弱が内地人地主の経営する農地というのである。これら大地主は、既に内地に於て田畑を買い集め、或は開拓、開墾、干拓して農地を作り、そこからの地代(小作料)を資本として大規模な営農に乗り出していた。

 日清戦争後、内地に比べ格安な朝鮮の土地を買い、地主になった。併合以前には、法的には外国人の土地買収は認められなかったが、事実上制約が無い状況だった。この時期には朝鮮人地主から既墾地を購入していたのだろう。朝鮮では地価が低く設定されたため、内地に比べ耕地の値段が安かった。そこからの毎年の収穫高=小作料をみれば、ずいぶん高利回りの投資だったようだ。

 併合後は、土地調査事業によって確定された国有地の払下げ、貸付けを受けた。