銅町 組と契約 その2

 以前に「嘉永元年の銅町 組と契約」という記事を書いた(嘉永元年(1848)の銅町 組と契約 - 晩鶯余録 (hatenablog.com))が、それに関する記述を読むことができたので、ここに引用したい。(国立国会図書館デジタルコレクションで「山形市銅町」「銅町」と検索するとたくさん出てくる。)

 

 以下一部抜粋して引用、下線は筆者

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山形県の民俗資料 : 民俗資料緊急調査報告 第1集』

  出版者 山形県教育委員会  出版年月日 1965(昭和40年)

  調査員 小林隆三  調査責任者 丹野 正
  話 者 菊地熊治、後藤隆治、渡辺利八、江ノ目達雄、吾妻ツヤ、長谷川政市

 

10 社会生活
地域社会の秩序と安寧を保つためには、どのような方法や組織があったか。

 ⒈山形市銅町

⑴ 契 約……町区を上・中・下の三組に区分し、それぞれの組で規約を作製し全戸加入を原則とした。戸数は約20戸を単位とした。当番の順序はまわり番とし、年1回開く契約の総会時の世話役一切を引き受ける。
 総会時の仕事としては  宿の準備  経理の報告  献立の準備  膳椀等の準備

⑵ お日待ち 
 名 称  通称お日待ちといった。
 構 成  加入の資格は借家人をのぞき家主連が集まって行なう新年宴会である。
      神主を招待し年頭のお祝いと商売の繁盛を祈願してもらう。

 

11 組・講の道具
 組・講で受けついできた書類箱・当番札・くじ・飲食器などがあったか。

 ⒈山形市銅町
 〔組について〕 山形銅鉄器組合  年一回総会を開く 現在は銅鉄鋳物協同組合と改称

 〔契約について〕 銅町全町区を上・中・下の三組に区分し、それぞれの組で規約を作製し全戸加入を原則とした。 一番組はおおよそ20人内外で契約総会時の責任はまわり番でおこなう宿が負うことになっている。受けついできた品物としては、
 ① 飲食器
   〇膳椀(本膳)各々20人分 お椀 お膳 皿  〇めいめい盆 20人分  〇七つ鉢 七重の木製の四角な箱型のもの 煮焼きした食べ物を入れる丼に類するもの

 ② まくり
   飯台は寺のものを借用していた。 葬式・婚礼年一回の契約の総会時に使用した。書類箱・当番札・くじ等は特になかった。 

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 以上引用終了

 

 「契約」は上・中・下の三組に分かれてそれぞれに規約があった。長谷川總次右衛門家文書「連印仕り仲間約定の事」によれば、嘉永元年には「三つの組に二つの契約」があって組と契約が一致せず、一契約の人数が多くなっていたために不手際が生じ、組間の悶着を起こしていた。その後、組と契約が一致するように変わったのだろう。文書の中にも膳椀の所属のことが書いてあるが、二契約当時は数が足りず、貸し借りがあったようだ。

 

 各組20人内外ということである。銅町の旧地番図では大通りの西側は、南から一五一番~一八一番まで、東側は北から一八ニ番~二一七番まである。南から北に東西それぞれ10番ずつ区切ってみるとおおよそ上・中・下の各組に該当するようである。銅町には弘化年間(1844~1847)の絵図でもおよそ60軒があり、旧地番はその町割りに従って当てられている。

  

 

 「連印仕り仲間約定の事」に見える、中の組連名者17人の名をあてはめると、西側は南から一六一番が庄司清吉、一六九番が佐藤金十郎である。東側は多分一九七番が勇五郎で、多分ニ〇六番が留蔵(太田か?)である。

 中の組には長谷川總次右衛門や大西忠兵衛、庄司治右衛門など銅町の検断を務めた家がある。佐藤金十郎や大西忠兵衛は京都の「免許状」(名称は「~執達状」など)を持っている。

 「明治三年銅町之絵図」では、中の組の組頭は長谷川甚六であった。上の組(仮に南部を上として)の組頭は小野田寅之介、下の組(仮に北部を下として)の組頭は須久勘蔵であった。

 

 三組のそれぞれの中で共同して製造していたのではないかと考えて、『幻の梵鐘』の資料から複数人の記名がある梵鐘を書き出して見てみたが、必ずしも氏名と町内の場所とが比定できず、明瞭には読み取れなかった。

 

 中の組の長谷川甚吉家(長蔵、長兵衛と続く)は、明治に入って上の組の小野田平左衛門家から養子が入り、彼(四代目)とその子たちが小野田才助の仕事を手伝ったり、才助亡き後の小野田商店を継いだ関係から、上の組との交流が強かったとみられる。他にも町内では養子や分家の関係が多々あったのではないだろうか。

 

 

 なお、組分けが五つだった時期があるとの記述がある。

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山形工業高校郷土研究部『山形職人町の研究』

 「山形の銅町の研究」 昭和三十四年(1959)度研究テーマ

 

 ▼蔵王山参拝

   これは銅町が一番組から五番組迄分かれた時に、三番組にだけあったもので、毎年組内から三人ずつ代表で蔵王山参拝に行ったのである。これが一応組内一回りすると組をあげて“総まいり”と云うものをした。その参拝コースは、宝沢から登って高湯に下ると云ったもので、総まいりの時は二十余名が参加していた。

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 この一番組~五番組の時期がいつか、三番組の範囲はどこかはわからない。しかし、嘉永元年の時点で組分けを増やすことに否定的だったことを考えると、それ以後、明治以降、銅町の人口が増加してからのことであるのは確かだろう。

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 その2

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)から続く。

 

 半澤久次郎家は江戸時代から漆山村の地主で、後に紅花商いから財を成した。明治以降田畑の所有を拡大、村山地域最大級の大地主となった。二代半澤久次郎(俳号二丘)は50歳代の文政後半ころ家督を弟弥惣治に譲ったようだが、その後も長生きし、60歳を過ぎた天保十年(1839)には京都まで旅している。安政三年(1856)一月に79歳で亡くなった。明治に代わる頃は四代為親、五代爲澄、六代爲傳が続いて成人し、三代が揃っている安定期を迎えた。文化的にも、家には一万冊を蔵する「曳尾堂」文庫を持つに至った。

 明治九年(1877)に三条実美大久保利通が半澤家に立ち寄り、十四年(1881)九月には明治天皇が東北御巡幸の際に小休止されることとなった。その準備に近隣の人々は大わらわで、半澤家も莫大な支出があったが、豈図らんや明治十年に為親が65歳で、十四年の八月(明治天皇御駐輦の一ヶ月前)に爲澄が53歳で急死してしまう。この危機にあって爲澄の三人の息子がなんとか供応接待の任を果たしたが、中でも最も力を発揮したのは次男の宏(諱は健吉)であった。彼は一家の立て直しに尽力したが、十年ほど後に病を得、明治二十七年(1894)に40歳にして亡くなった。母のキノはその追悼のためか最上三十三観音を巡礼した。

 長男の六代久次郎爲傳(後に洞翁と改名)もまた、「綿衣破袾」を着、同僚との酒食の宴にも臨まず、吝嗇と嘲笑されても意に介せず、貧民の救済や産業の振興のためには金穀を惜しみなく提供したという。明治二十二年には出羽村(漆山、千手堂、七浦の三村が統合)の初代村長となった。明治三十三年(1900)ころには家務を息子の七代爲邦(幼名亀吉)に譲ったが、なお自家の「羽陽勧農園」に農業技師を招き、「出羽農會」を設立、また窮民救済のために北海道開拓(旭川近辺の美唄に半澤農場を開いた)を始めたり、三十七年(1904)十一月には合資会社「漆山倉庫」を設立したりした。大正三年(1914)二月、63歳で没した。

 爲傳の子、七代爲邦は、叔父健吉が病を得たころに東京での学業を終えて帰郷、翌三十八年(1905)正式に家督を相続し、漆山倉庫にも入社した。模範小作人を表彰したり農業指導員を雇い農業改善の実地指導をさせ、大いに品質の改善、収量の増加をみた。大正四年(1915)の即位の大典に列席する栄誉を得た。漆山倉庫は社団法人、次いで株式会社となった。

 健吉の子亀治(大正六年に健吉と改名)は父に続いて七代と八代を補佐し、漆山倉庫支配人として実務を行っていた。さらにその子の宏吉は京都大卒業後、漆山を出て実業の道に入った。

 七代爲邦は大正十一年(1922)十月二十二日、数え54歳で没した。その時、嫡子の弘介は27歳、既に結婚して長男も儲けていた。

 

 

○ 七代久次郎 爲邦(爲傳子)

  明治二年(1869)六月生、大正十一年(1922)十月二十二日没(53歳)

   妻、紙子(没年未詳、昭和十三年には63歳で健在)

     七代 爲邦

 

 

 ○ 八代久次郎 爲弘(弘介、爲邦子)

  明治二十九年(1896)生、昭和十一年(1936)六月二十二日没(40歳)

  大正三年(1914)山形中学卒業(18歳) 

   先代(七代)没時26歳(11月4日襲名)  慶應義塾大学法学部卒業

  大正十三年(1924)陸軍二等主計 少尉?

  大正十五年(1926)陸軍三等主計

  昭和三年(1928)五月一日、後備役

  昭和五年(1930)「明治天皇御駐輦記念碑」(五十周年)を建立。

   〃     高橋俊一に『物語出羽村郷土史』を執筆させ刊行。

  昭和七年(1932)三月、漆山倉庫支配人半澤健吉が亡くなる。54歳。

  昭和八年(1933) 村会議員、軍人分会長、農会長、経済更生医院副会長、

     株式会社漆山倉庫取締役、天童運送株式会社取締役、羽前銀行監査役など

   妻、りよう(上山、會田氏長女 没年は未詳。昭和十六年には41歳で健在)

      大正15年、31歳

 

 これまで半澤家は八代久次郎の時に漆山を去ったと伝え聞いていたが、詳しく調べると八代は戦前に亡くなっており、半澤本家が消えたのは九代以降であることがわかった。

 以下、半澤家の子たちがいずれも旧制山形中学校(現山形東高校)を卒業していることから、同校同窓会の『会員名簿』を閲覧して確認できたことを中心に記す。『会員名簿』は昭和十五年版からあり、十七年版、二十四年版と続く。戦時中は刊行できなかったとみられる。

 

○ 久次郎(九代 督三?、弘介長男)

  昭和十三年(1938)山形中学卒業 

  昭和十七年(1942)入営 

   没年未詳、但し昭和二十四年度(1949)の名簿には「逝去」とある。

   「○死」と書き込みがあるが、○のくずし字が判読できない。

   この年代には「戦死、戦病死」の書き込みが多いが、「戦」でも「病」でもないようなのだ。

   先代(八代)没時、山形中学在学。

 

○ ーー達司(弘介次男)

  昭和十六年(1941)山形中学卒業。早稲田大学専門部在籍。

  昭和十八年(1943)入営(弟の随筆による。十月の学徒出陣以降かと思う)

  昭和十九年九月没。(鉛筆による名簿への書き込み)

 

○ 久次郎(十代 宏夫、弘介三男)

  昭和十七年(1942)山形中学卒業。浪人し、二兄達司の下宿に同居する。

  本人が昭和四十八年一月に発表した随筆によれば、十八年末に徴用令が来て身体検査を受けたが、十九年正月の再検査の際、若い海軍軍医の温情で「結核」との診断で不合格となったという(徴兵よりも軍需産業への徴用を恐れていた)。

   慈恵医科大学在籍、医師となる。 

  終戦後、農地改革を経て漆山を引き払った際の当主はこの方だろう。

  これ以降は東京在住。開業医。(故人)

 

 大地主の当主が入営するのは珍しいように感じるが、既に大正時代から八代弘介(爲弘)が軍務についていた。九代とその弟が入営したのは、それだけ国家が非常時であったということだろう。酒田本間家の九代当主光正も十八年に42歳で応召し(陸軍騎兵中尉)病を得て帰郷、二十年三月に没している。

 九代とその弟達司が相次いで亡くなった(前後は未詳)。七代から26歳の若い八代への相続も大変だっただろうが、さらに八代が40歳で早逝し未成年の九代が相続した際には、母りようの苦労は並大抵ではなかっただろう。親子二代に渡って本家の六代から八代までを補佐してきた半澤健吉もすでにいなかった。

 当時米の供出と配給を行ったのは農会(地主中心)かと思うが、実際には混乱も多かっただろう。旧来のように小作米が直接地主のものにはならず、国の管理下におかれた。一方、農家の自家留保分はかつてより多くなった。環境が激変していたのだ。

 そして九代も二十歳代で亡くなってしまった。末弟の宏夫はまだ医学生で、予想もしていなかっただろう襲名、家督相続をしても、預金封鎖、新円切替、財産税、農地改革の大嵐(小作農民組合からの厳しい追及)の中で、ほとんど何をする力もなかっただろう。あたふたと離村し、整理されない史料や「曳尾堂文庫」の厖大な書籍も、一部は矢萩家に移ったというが、結局散逸してしまった。事実上当主不在の状況で、家務は番頭(差配)のような人が行なっていたのだろう。

 このように、不運にも立て続けに当主が早逝した(しかも次第に若年化していった)ことが、謎とされてきた半澤家出村の最大の原因なのだろう。

 

 4月7日、8日、数カ所訂正、修正しました。

菅原安兵衛(曙屋安養信士)について その3

 長谷川長兵衛家過去帳にある「菅原安兵衛」戒名「曙屋安養信士」という人物について、長谷川清さんの所蔵する資料の中に関連するものがある。庄司安兵衛という人物と長谷川長兵衛の関係を考えるうえで貴重なものだと思う。

 

 以前に北隣の庄司治右衛門家の旧土地台帳を調べた。

 202番の所有者は庄司𠀋吉から始まって明治33年に長谷川長吉(通り西向かいの長吉であろう)に移り、大正10年に(21年ぶりに)庄司治右衛門に移り、以後、戦前は庄司氏が続いている。

 面積は5畝29歩(179坪)。

 203番の所有者は庄司彌助から始まって、明治32年に明治村字灰塚の藤田茂八の所有となったが、二年後の明治34年に庄司彌助にもどっている。以後、明治42年に庄司安兵衛、大正10年に庄司敬一と続き、大正13年に齋藤勘三郎に移った。

 面積は3畝10歩(100坪)。

 考えるに、庄司安兵衛は彌助(父?)の代までに庄司治右衛門家から分家したのではないか。安兵衛は南隣の長谷川長兵衛(五代平治郎)と鉄瓶の販売契約を結んでいる。それはカタログによる全国販売を目指していたようである。

 カタログはA5判24頁。印刷所は、「山形縣山形市旅籠町新道四一五 渡邊活版所」とある。なお商品図は写真ではなく描画である。ほとんどが鉄瓶だが、他にも茶釜、風呂、鉢、羽釜、水風呂鉄砲(鉄砲風呂)の図が載っている。

 

   

   

  

  謹啓各位益〱御淸榮之段敬賀候隨而弊店儀七代前より鍋釜

  製造を専門と致し江湖諸彦の高評を博し來り候處先年來大釜

  (醤油酒釜)及鐵器類一式の鑄造を行ひ各地に輸出販賣し是れ亦頗る

  好評を得又群馬縣主催一府十四縣聯合共進會に於て受賞の恩

  典を蒙るに至り候而かも弊店之に甘んせず益〱鑄造法の改良

  を圖り溶解爐を改築し機關應用の結果幸にして他國産に比し

  永く御使用保存に堪ゆべき良器を鑄造し得らるゝに至り候又

  此度鐵瓶製造専門光安堂と特約一手販賣之約を結び頗る廉價

  を以て販賣致すべく候間本表御高覧被下卸小賣共多少に不拘

  御用命の程偏に御願上候

                  山形縣山形市銅町二〇五番地
          明治四十三年九月      福井屋
                 群馬縣主催一府   萬鑄物
  明治四拾四年拾壹月   十四縣聯合共進会 製造業 井 長谷川長兵衛
                     褒賞狀受領  

                                        電略〇井
                                                          電話五四三

                               山形縣山形市銅町二〇三番地
                       茶釜鐵瓶製造人 庄司安兵衛

 

  

 

 インターネットとも違って、この販売方法がどれほどの成果を得たかは不明である。ただ、銅町では他にも鉄瓶の一手販売で二者が協力した例があるので、当時銅町全体にそういう方向を模索する機運があったのであろう。南部鉄瓶に対抗しようということかもしれない。

 

 菅原安兵衛は大正四年(1915)に63歳で亡くなっている(時に四代目長谷川ミヨは71歳、五代目長兵衛56歳、六代目甚吉は28歳だった)。だから菅原安兵衛=庄司安兵衛であれば、この一手特約販売は数年間しか続かなかったことになる。

 この後「光安堂」の名は、大正十四年(1925)の『裏日本実業案内 羽越版』に「光安堂 火鉢製造元 庄司安吉 山形市新銅町」という広告が載っている。また「國産山形鐵瓶製造販売 庄壽堂 /\三 庄司彌三郎 山形市新銅町」という広告もある。

 昭和三年(1928)版の『大日本商工録』には「/\丸 光安堂 庄司安吉 山形市新銅町 火鉢製造元」とある。

 これらと菅原(庄司)安兵衛との関係の有無は不明である。なお、新銅町は宮町両所の宮の角から東の道に沿った地区である。鋳物業が多い。

 

 さて庄司安兵衛が菅原姓になったとして、そのいきさつも不明だし、そもそも過去帳に記載されていても長谷川家の墓に納骨されているかどうかもわからない。親友だから命日と戒名を過去帳に記載しただけなのかもしれない。「光堂」、「兵衛」から「養」という戒名になっているとも考えられるが、「曙屋」の由来は不明である。まだまだ安兵衛の謎は解けない。

大石田町に行く 『土に叫ぶ人』

 大石田町役場隣に「虹のプラザ」という施設があって先日公演があった。近江正人作・演出の『土に叫ぶ人 松田甚次郎と妻睦子~賢治の夢を生きる~』である。

 午前中に着いたが、雪だった。時々吹雪く。さすが大石田斎藤茂吉が戦後の一時期住んだ「聴禽書屋」を見に行く。建物が古く、二階に上がるのは禁じられている。「大石田町立歴史民俗資料館」が隣に建てられているが、雪の季節に行くものではない。

 かつて最上川舟運盛んな時代、大石田河岸は大いに栄えたのである。天領で船番所があった。庄内への運送はこの船しかなかった時代である。左沢、寺津なども同様であるが、間の村山市に碁点・隼・三ケ瀬の三難所があって大型船は大石田までしか遡上できなかった。

 昼食に会場近くの蕎麦屋で鴨せいろを食す。この辺の蕎麦は美味い。最近、尾花沢の向こうの宮城県加美町から尾花沢によく食べに来るという人と会った。この方はなんと十九代続く農家だという。常陸という名字で、この姓は加美町に集中している。さぞや由緒のある方であろう。おいしくいただいて会場の「虹のプラザ」へ。開場前からロビーには人が二列に並んでいた。満席である。

 終演後、作演出の近江先生に挨拶に行ったが、そこで旧知の人二人と逢った。外には出てみるものである。しかしお互いに年取ったな。

 会場は大石田町町民交流センター虹のプラザ、愛称「なないろホール」。最大343席(1階285席・2階58席)を収容できる多目的ホールである。

 

  

 

 松田甚次郎は戦前に山形県新庄市で農村更生、改革運動を実践した人である。最上郡稲舟町の地主松田甚五郎の長男として明治四十二年に誕生。県立村山農業学校を経て盛岡農林高等学校に進んだ。在学中十八歳の時、先輩の宮澤賢治に面会し「小作人たれ、農村劇をやれ」との「訓へ」を受け、帰村後、父から六反歩の田地を借りて小作人となった。とはいっても、完全自立というよりは親の協力なしには以後の活動も不可能だったろうとは思う。

 村の若者たちと農村塾をつくって活動した。渇水を主題に農村劇も創作し、宮沢賢治の助言を受け『水涸れ』と題した。それは神社境内に作られた土舞台で上演された。

 昭和七年、二十三歳で大石田対岸の横山村(新庄藩飛地)村長寺崎效太郎の次女睦子と結婚。彼女はお嬢様から小作人の嫁へと生活が一変した。この縁で今作品の大石田公演では睦子が語り手となって話を進める。同年「最上共働塾」を設立。

 昭和十三年、甚次郎は自分たちの活動記録『土に叫ぶ』を出版した。出版したのは東京の羽田書店で、これは第八十代総理大臣羽田孜の父、羽田武嗣郎が創設した出版社である。武嗣郎は甚次郎の六歳年長、長野県出身で東北大学で阿部次郎に学び、朝日新聞政治部の記者をしていたが、昭和十一年に新庄の農村活動を調査取材に来たことがあった。その縁で甚次郎の活動が知られることになったのだ。その後武嗣郎は政治家となり、運輸、農林政務官などを務めた。同時に出版業を起こしたが発行人は別人の名になっている。『土に叫ぶ』を和田勝一が脚色、昭和十三年八月に新国劇が東京有楽座で一ヵ月間上演して大きな話題となった。連日満員で、現役四大臣が観劇したという。その後大阪、名古屋でも公演が続いた。こうして松田甚次郎の名は全国に知れ渡り、講演に忙しい身となった。

 昭和十八年八月、三十五歳で逝去。十一月、「最上共働塾」は閉塾となった。

 

 このような甚次郎の生涯を作品は概観する。その扱い方は山形市平和劇場でとりあげる人物評伝に似ている。郷土の偉人を紹介し顕彰するといった趣に近い(平和劇場は反戦平和の主題に沿う人物に限っているが)。井上ひさしの『イーハトーブの劇列車』や『頭痛肩こり樋口一葉』などのように作家性を持って対象者の人生や社会に切り込み作品化するというものではない(今作品には『イーハトーブの劇列車』の一部が参考にされているようだが)。しかし、宮沢賢治のように誰にもよく知られた人物でなければ、エピソードを紹介するだけでも大変なわけで、仕方のないことではあろう。

 一人の人生を俯瞰的、網羅的に描くのではなく、何か一点に絞り込まなければ二時間あっても足りない。

 

 また、少しばかり土地制度を調べてみた自分にとっては、明治から戦前の昭和までの地主小作の有り様と人口爆発の問題点、その変化(小作争議、共同集荷出荷、戦中の供出、配給)などがもう少し反映されてほしい感じがした。そうなれば農村協働組合の実態とその影響がわかりやすくなったかもしれない。禁酒禁煙、敬神家であり政治思想的には偏らなかったようだが、地主が小作人になるという大胆な行動をする人間性、精神性がいかにして形作られたかも興味あるところである。実在した人物を演じる役者さんが役柄をよく把握するためにも、より深く研究されるべきことであろう。

 

 さらに、地域の文化活動を取り込んだ構成になっている(たとえば子供たちの合唱とか和太鼓の演奏とかダンスとか)。ようするに文化祭的公演になっていて、それはそれで楽しいのだが、新庄演劇研究会さんの公演(あまり観ていないけど)のように、リアリズムの演劇表現を追求したものとは違っている。だから「演劇」を期待して観るとやや期待外れだったかもしれない。しかし、これは全く個人的な感想であり、二時間半の大作を作り上げた方たちの熱意と努力には敬意を表します。二時間半飽きることなく見入っていました。お疲れさまでした。

春の息吹

 日射しがあって寒くないので、馬見ヶ崎河畔(馬畔=「ばはん」と雅称する)を散歩した。先月で学習指導員の勤めが終わってからほぼ引きこもっていたが、急にある事情があって仙台まで何往復かしたら、バス停への移動だけで足が痛くなったので、運動の必要を痛感している。

 梅が咲いていた。雪は溶けている。奥には遠く村山市の甑岳が見える。

 毎日パソコンのモニターばかり見ている目も、遠くを望んで気持ち良いか。

 

   

 

 自宅庭の隅に蕗の薹が出ていた。ここは南からの陽が当たる。先月は一時、四月の陽気だったが、結局は順当に三寒四温で春を迎えている。今日は高校入選の日。昨日は山形大学の合格発表日。人が動く季節でもある。

 

     

『駈込み訴へ』

 太宰治の『駈込み訴へ』について少し考えたこと。

 高校演劇でも題材にされてきた作品だ。一人芝居でもできる、ということもあるのだろう。献身が認められない不満と屈辱、嫉妬から裏切りへ、可愛さ余って憎さが百倍、その内心の吐露が面白いからでもあるだろう。

 昨年末、高校演劇東北大会で上演された『駈込み訴え』(上演、青森中央高校演劇部 作、畑澤聖悟)を観たので触発されたところがある。畑澤氏の指導による上演は周知のとおり他校のレベルを超えているので、その素晴らしさは、いまさらここに書くまでもない。ただ、その原作からの脚色に関して、少し自分なりに思ったことを書いてみたい。だから作品批評でもない。独り言である。

 この作品は今夏、岐阜での全国大会で上演されるのでぜひ観てください。会場は、東海道新幹線岐阜羽島駅から少し離れた不二羽島文化センターにて、7月31日(水)から8月2日(金)までの予定で開催されます。

 

 舞台は某高校演劇部の部室、三年生部員は二人しかいない。二年一年が少しずついる。三年生の一人が演出で主役。もう一人が演出助手で、これがマネージャー役もこなしている、裏方全般を一人で支えている。近々大会で『駈込み訴え』を上演しようと稽古しているのだが、主役はイエス。これが暴君的な先輩で下級生に厳しい。自分が演出して自分で主役をやるのだからまあ独裁者である。それが「いじめ」となって、部を辞めていく子もいる。先生方のなかでも噂になるくらいである。で、担任で生徒部の先生が、演出助手の生徒から内部情報を聞き出そうとして、進学の「学校推薦」を餌に近寄る。ここで演出助手はambivalentな状況に悩む。自分の利益のために一年生から部活動を共にしてきた演出を裏切るのか。

 ここがイエスイスカリオテのユダの関係に重ねられているのだ。太宰の原作の言葉が台詞となって流れてくる。太宰が口述筆記させたというくらいで、まさに人の口から流れ出る言葉である。部活動の描写と新約聖書のエピソードが非常にうまく重ねられている。傲慢な演出(イエス)に対しておどおどしながらも献身的に従う演出助手(ユダ)。

 

 ……感想で終わりそうだが、一つだけ、「無理してるんじゃない?」という台詞についていろいろ考えたのでそれを書いてみたい。

 二回出てくるが、最初は演出助手が演出に向かって言う。部活動に全てを賭けている友人を気遣いつつ、部内の雰囲気を何とかしたいという思いも込められている。二回目は幕切れ。裏切った演出助手の目の前に十字架に架けられた体の演出が立ち、演出助手に対して「無理してんじゃね?」と言うのだ。この二回目の台詞の意味を考えてみた。

 演出助手が「無理している」のを演出は感じ取っていた。その「無理」とは何か? 部活動の細々とした雑用を一手に引き受け、勉強にも差支えている状況を言うのか。あるいは、部内のいじめについて、自ら撮影した映像を証拠に先生に訴え出た裏切り行為に対して言っているのか。

 そう。ユダ(演出助手)は無理をした。無理を重ねたために状況は悪化し、ついに破綻(一面では成功)した。

 部活動では、演出の理不尽なわがままを通すのに反対せず、その実現に奔走し、また演出の思うようにできないと暴力的なまでの演技指導をすることを内々に収めようとする。勉強は思うに任せないが、担任から推薦の話を聞いて一筋の道を見出していた。ところが推薦希望者がもう一人現れた。なんとしても進路を確定したいではないか。しかしそのためには二年間以上ともに歩んできた友人を売り渡さなければならない。

 最初から、出来ない事は出来ないし、駄目なものは駄目というべきだったのだ。八方美人的に丸く収めようなどと無理するから大事になるのだ。担任には、そんな餌で釣るようなことはしないでくださいと言うべきだったのだ。

 あるいはまたこんな風にも思う。

 原作の最後で、ユダは「あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」と言う。

 「へっへ」とは太宰のお道化なのかもしれないが、このような打算的な開き直りはまあ、普通の事ではないだろうか。誰しも自分は聖人君子じゃないと自分を納得させる時があるのではないか、大人は。ねえ。問題は、そこで、演出助手が演出を裏切るのはつまり、initiationだということだ。そんなに気にすることではないのだよと、イエスは優しく言ったのかもしれない。高校生が一段飛び越すその危機的状況に、教師はあまりにも無関心で恥知らずである。部活動を指導するべき顧問は不在だし、生徒部の先生も自ら聴取しようとはしない。教員の連携も無く、生徒の弱みに付け込んで裏切らせ、その生徒が傷つくことには考えが及ばない 大人はきっと忘れてしまったのだろう。忘れないと生きてこれなかったのかもしれない。大人になれよ、いつまで甘いこと言ってるんだよ、と。

 ユダは縊れて死んだという。なぜか太宰のユダにはその自死の気配が無い。舞台のユダ(演出助手)は、実に危機的ではないか。もしイエス(演出)が聖書の通りに「生まれてこない方が良かったね」とでも言ったら決定的だろう。誰が責任取るんだよ。

 演出助手にもう少し頼れる先生がいて、その助けを受けて自立して、(開き直るのでも自己正当化するのでもなく)正義を通す。部活も止めて推薦も辞退して、自分で道を切り開こうとする。そんな結末も考えられるかもしれないと思った。

 

 

山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』批判

 前にも触れたが(朝鮮半島における土地制度の変遷 番外 山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』 - 晩鶯余録)、山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』(岩波新書776、1971年)の38頁に次のように書いてある。下線は筆者。(2月12日加筆)

 

 「朝鮮人が土地を抵当にして、日本人の金貸しから金を借りて、その金の返済期限を何月何日ときめるとする。この期限はたいてい一〇〇日以内であるが、約束の返済期日時になると時計の針を一時間くらいすすめておく。この奸計を知らない朝鮮人が金を返しにくると、約束の時間はすぎているというので抵当流れにしてしまうという、ちょっと考えられないようなことが行なわれていた。

 買収による土地にしても、それは普通の買い入れではなく、腰にピストルと望遠鏡をもって土地の買い入れに出かけるのである。この方法は日本の官吏がやった方法で、休みの日に望遠鏡をもって丘の上に行き、手ごろの土地を望遠鏡で見つけると、そこに何某所有の標柱を立て四方に縄張りをしておく、もし所有者が届け出をしないときはたいてい標柱を立てた者の所有にしてしまう。

 これらのうそのような話は、みな当時の経験者の話としていまも記録にのこっている。たとえば加藤末郎『韓国農業論』や『朝鮮農会報』の「二十五周年記念号」にでている農業経営者の座談会で、一々引用の煩にたえない。」

 

 まさに「うそのような話」なのだが、この金貸しや官吏の不法行為のはなしはその後の論文にも影響し、広く信じられているもののようである。

 たとえば『大阪における「在日」形成史と階層分化:高齢期にある在日韓国朝鮮人一世の生活史調査より』(2010)CV_20240212_2009000772.pdfなどは主要な参考文献の一つとしてこの山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』を挙げている。論文内容は実地調査に基づいた堅実なものと思うが、本文で「併合の翌月朝鮮総督府官制がしかれ、いっさいの政治結社は解散され、御用新聞以外の新聞は廃刊になり、武断政治が行われることになった。裁判によらず犯罪を即決し、日本人にはない答刑を実施したことにも見られるように憲兵による統治であった。そこにおいて日本政府主導のもとに設立された東洋拓殖株式会社は土地を抵当に金を貸し、抵当ながれで土地を取り上げ、日本からの農業移民(1910~26年に 9096戸)を送り込んだ。」と書いている。そこにはいかほどかの先入観が(もう無意識に)潜んでいるように感じる。

 笞刑は朝鮮旧来の刑罰であったろうし、東洋拓殖が土地を抵当に金貸しをしたとしても、東拓が移民を入れる目的で時計をごまかすような不当な取引で土地を奪ったわけでもあるまい。そもそもそんな面倒な方法より直接買い取る方が早い。以下に見るように、土地を日本人に売りたい者が多かったのだから。

 

 さて、そもそも山辺の引用元にはどのように書いてあるのか、読んでみた。

 

 まず、『朝鮮農会報』であるが、それは昭和十年(1935)十一月発行の第九巻第十一号で、冒頭記事「始政二十五周年記念朝鮮農事回顧座談会速記録」(2頁~91頁)が該当する。明治四十年代当時の農業指導の実情について、複数の実体験者が回顧する座談会である。引用に当たって旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 

 辻善一(不二興業社員)の話。(36頁~)

 「私は明治四十三年の三月に朝鮮へ参つたのです。(中略)当時は日韓併合の直後でありますから、例の朝鮮軍隊の解散兵が暴徒化して、日本人と見れば皆殺すといふ騒ぎの頃でありますから、私等も村田銃を持つて居つたものであります。かやうな訳でありますから、私等の棉花試作所には守備兵が六人ほども居つたのですが、内地人は他に五、六人居りました許りで、(中略)こんな物情騒然たる時に棉作を奨励しやうとしたのであります。それには先づ第一に土地を選定しなければならない、百姓に向つてお前のところでは棉を何段歩に植えるか、二段歩か三段歩か、而してどこの畑に作るのか、と言ふ工合に而も一戸一戸戸籍でも調べるやうに廻つたものであります。

 而してもう一つは百姓は陸地棉といふものを寧ろ嫌つて在来棉を作りたがり、陸地棉の種だけを貰つて蒔かないのです。

 そんな工合で、予定の面積が却々出来ないので、第一にかういふことをやつたのであります。それは丁度、一、二、三月に在来棉を全部抜いて終つて在来棉の種を残さないやうにして置いて、而して今度蒔く時に行つて種をやるのであります。(中略)それでも在来棉の面積が沢山ありますから、今度は六月の末か七月に、在来棉を作つてゐるその村に出懸けて行つて、青竹を一本持つて、片端から叩き倒して終ふのです。実に乱暴なことを遣つたものですが、それを可なり長い期間続けたものです、斯くして在来棉はその跡を絶つたのです。」

 

 38頁からの発話者は繁野秀介(朝鮮縄叺協会主事、明治四十一年(1908)赴任当時は農業技術員。全羅道は棉(綿)の重点的栽培地と定められていた)。

 「又適地選定と云ふ事に大変困りました。何故ならば適地を選定して耕作者の氏名を書いた標木を樹てると翌日抜き捨てて了ふのです。之は土地に税金を掛ける為に樹てるのだらうと云ふことを流布して妨害するからで、面長、里長を立会させて、今日の様に面事務所が在る訳でもなく名だけの面長であり、其の人も一緒になって云ふのであるから甚だ始末が悪い。其の当時は郡庁を郡衙と称して居りましたが、郡守に農事の奨励上に付き相談に参りましても仲々容易に応じて呉れない。漸く郡守が承諾して出張と云ふ段取となると、輿に乗り、従者を多数引連れ、郡守の印箱、長柄の煙管を従者に持たして大名行列に供揃へをして出掛けると云ふ状態であり、到着した部落では大変なお祭騒ぎで、指導どころではなかったのです。

 夫れから其の当時の我々技術者は銃及びピストル等を携帯して……最も此の銃器は官給品で在ります……指導奨励に従事したのであります。何故銃器を携帯したかと申しますと、其の当時は。暴徒の横行が盛んでありまして、いつ何時、暴徒の襲撃を受けるか判らないからでした

 暴徒にも色々種類がありまして、其の時の政府に反対して徒賊をなすものを義兵と称へ、又た火賊と申しまして直ちに火を放ち略奪するもの、夫れから各地の鎮営隊の解散兵が暴徒に変化したものが有りました、之れ等の徒が何時我々を襲撃するか判りませんので、今申し上げました通り附近の農民は能く親んで危険があれば直ぐに知らして呉れました、少し遠距離となりますと頗る危険でありますから、昼は終日指導に従事し、夜は農民を集め講話を致し、就寝する時は里長の宅か又たは酒幕で銃を抱へて壁に寄り掛かつた儘、転寝をして暴徒の襲撃を警戒しながら宿泊したのであります。」

  筆者注、「酒幕(チュマク、チュマツ)」は居酒屋兼宿屋のこと。

 

 続いて42頁から兵頭一雄全羅南道、営農)の発言。

 「只今棉のお話中でありますが、実際あの当時まのあたり見てゐました私等としては、ただ感慨に堪えないのであります。当時この全南に開拓のため来て居つた内地人農場の空気は今の満洲武装移民を思ひ出すのであります。私共が土地の買収に出ますには腰にピストルと望遠鏡を下げまして、而して二里、三里の田舎に出掛けて、農場としての有望なる土地がどこにあるかを探しにゆくのですが、その時には、どこの山で内地人が殺されてゐたとか、人質に日本人が何人も拉致されたとか、必らず耳に致したものであります

 ただ今もお話ありましたが、光州の佐久間農場も暴徒に襲撃されたといふことも当時聞いたのでした。これらの暴徒といふのは、韓国の解散兵でありましたが、それ以前、明治四十一年からニ、三年の間、あの全南の山地々帯に身を潜めて各地を荒して居つたのであります。それで私が四十二年の春、農場に入りますと同時にピストルを下げ望遠鏡を肩にして丁度、兵隊同様に軍人精神を横溢させて通訳を伴れて行くのでしたが、或る日のこと向ふの山を見ますると、遥か彼方を朝鮮人がニ、三十人も向ふの山の方に進んで行くのであります。そこで匪賊か暴徒の出現でないかと思ひまして、望遠鏡を片手に通訳に早く随つて来んかといふけれども「私は恐ろしいから!」といふて容易に進まないのであります。そこで通訳をその儘にして行って見ると、暴徒でなく擔軍が並んで仕事をしてゐるのでありました。」

 

 久次米邦蔵(京畿道、果樹栽培)の発言。(48頁からの部分)

 「最初、私は毎日京城から纛島に通勤して居りましたが、只今の本町三丁目まで参りますと、二階建の日本人旅館で大東館といふのがあり、それから東南は悉く草葺の朝鮮家屋許りで実に荒涼たる有様でありました。

 それに光煕門までの道路は狭隘、屈りくねつて羊腸たる上に汚物が流れ出した儘で歩行は困難、臭気紛々と鼻を突き頗る不愉快でした。門外に出ると人家はなく一帯の邱陵は累々たる土饅頭のみで、それから纛島までの路も狭く、往復の人や牛が辛うじてすれ違ふ程で、二輪車の牛車が往十里から東大門を経て鍾路の大路に通つて居るのであります。

 私がこの路を種々な感慨に耽りつつ通勤の三日目でありましたが、光煕門外の小溝の傍らで異様の臭気がするので、不図見ますと、男の生首が顔を上に擲げ込んであるのです。これを見て慄つとした悪印象は未に忘れませんが、これで私も身辺を警戒する心持になり、その後は常に「ピストル」を離さず通勤しました。」

  筆者注、「纛島(トゥクソム、トゥッソム)」は京城東南の漢江氾濫原。

 

 以上、各発言者の言うところによれば、標柱を立てるのは適地選定のためであり、その土地の耕作者(当然朝鮮人)名を書いておくと、農民が課税のための処置と誤解して耕作者自身が抜いてしまうという話である。これを土地調査事業中に日本人官吏が不法に土地私有を行なった実例のように解釈するのは曲解と言うべきではなかろうか。これは既に誰かが指摘していることなのかもしれないが、自分は今回確認したところである。

 

 日本人がピストルを持つのは自衛のためである。田舎の土地を見に行く時だけでなく、首都での通勤にすら必要な時期があったのだ。第二次日韓協約後の、義兵闘争が最も盛んだった当時の状況を考えれば当然の対応であったと言わざるを得ない。襲撃を受けた農場の悲惨な様子なども話されている。

 

 また山辺の同書第1章22頁に、朝鮮総督府の警察制度に関して「棉花栽培をやらせるときに、「郡庁に郡守を訪ねて御願致し、栽培者を物色して呼び出し、必ず播種するよう厳重に申渡して貰ったのです。ところが頑固でなかなか応じない。そこで郡守はこれに笞刑を命じ、始めは軽く打たせておりましたが、依然として承諾しないので、だんだんと強く打たせ二〇回臀部を打たせ大部局部が赤く腫れ上がった頃になりますと、いよいよ兜を脱いで播種することを承諾しました」。これは朝鮮農会の座談会で、実見者でありまた棉花栽培を朝鮮人にやらせた千葉喜千弥の談話であるからあきれるほかはない。」とある。

 あたかも総督府の警察が、棉栽培を受け入れない朝鮮人農夫に対して残酷な刑罰を行なって強制したかのように読めるが、実際の座談会での千葉喜千彌(殖銀春川支店長)の発言(44~45頁)は次のようである。

 

 「先程来、陸地棉栽培奨励当時のお話がありましたが、私も渡鮮早々、木浦に於て臨時棉花栽培所長の佐藤政次郎さんの御指導に依り、明治三十九年より四十二年三月まで其仕事に携はりましたので、如何に当初に於て苦心したかを御話致します。

 全南珍島は古来難治の地方でありまして、とても陸地綿栽培など承知しませんので、或時佐藤所長の命を受け、郡庁に郡守を訪ねて御願致し栽培者を物色し呼出し、必ず播種するやう厳重に申渡して貰つたのです。処が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、初めは軽く打たせて居りましたが、依然として承諾しないので段々と強く打たせ、二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上つた頃になりますと、愈兜を脱いで播種することを承知しました。今日から考えて想像の出来ない事柄で、随分無理もありましたが、当時の民度として仕方なかったのです。

 何しろ当時の郡守は生殺与奪一切の権限を掌握して居りましたので、郡守の命令には百姓達は震ひ上つたものです。」

 

 当時ほぼ略奪農法が主だった朝鮮に対し、江戸時代を通じて進化した日本式の農法や作物を急いで移植するため、日本の技師達は過激なまでの方法をとった。アメリカからの棉種を播かせるために、在来種の棉畑に行きそれを叩き折って根絶させたりもした。稲についても同様であったが、在来種は地方によって数え切れないほどあり、それらが混在して収穫されるため商品価値がつかなかったのだ(米については赤米と砂、石の混入や乾燥不十分が最も大きな問題だったが)。農民を従わせるための最後の手段として、郡守の強権に頼ったのだが、それは朝鮮式の酷刑を科することになってしまった。併合以前のことである。

 たとえてみれば、幕末に来日した欧米人が日本の刑罰(敲き。公開で五十敲き、百敲きがある)を見た時に感じただろう残酷さと似ているだろうか(欧米にしてもギロチンなどがあり、人の国を言えた義理ではないが)。併合直後には残されたこの刑罰も、住所不定とか罰金の払えない者に対する選択刑で、猶予、免除も即決でできた。罪人の健康を医者に検査させたりする施行規則もあった。しかしそんな酷刑は大正九年(1920)には廃止され、「今日から考えて想像の出来ない事柄」になった。

 

 望遠鏡で云々については、『朝鮮農業発達史 発達編』(友邦協会1960)24頁に、ある農場経営者の回顧談がある。旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 「当時群山港に管理署があり、外国人はこれを中心に、十韓里以内の土地を売買することが出来たのみで、それ以外の土地の売買には、無論証明がある訳がなく、不安心なものではあつたけれども、買収しておけば必ず成功すべしと信じて土地の買収を行い、時としては、山上から眺めて、これを買収したことすらあつた。(中略)国法を犯しての行為であるから、官公吏の目を遁れるのに相当苦心した。が朝鮮人の方では、日本人は土地を買収してはおるが、結局は手放すに至るものだ、と思つておつたとのことである。」

 これは座談会が語る時期よりもさらに前のことであるが、外国人が開港地で行動範囲の制限を受けていた頃に、山の上から望見して土地を買収したという逸話である。この話と前記のピストル・望遠鏡・標柱の逸話が混ざって最初に引用した「うそのような話」が出来たのではないかとも考えられる

 

 もう一つの出典例である加藤末郎『韓国望業論』明治37年(1904)発行。朝鮮の地理、気象、作物などについて細かく調査した、まさに農業論である。目を通したが、日本人が武装して不法な土地取得に及ぶような記述は見つけることができなかった。自分が見過ごしているだけなのか? 山辺が代表的な文献として挙げたこの二つに見当たらないとすれば、いったいどこから「一々引用の煩にたえない」ほどの例を読み取ったのかわからないのである。これでは断片から組み立てた妄想と言われても仕方がないのではないか。引用元の著者加藤末郎や座談会発言者に対しても失礼ではないか。

 

 第十六章の「韓国耕地ノ売買」171頁を引用する。旧字体新字体に変えた。下線は筆者。

 「韓国農民ハ 一ノ土地ニ固着セザルコト我農家ト異ナレリ 金銭ニ窮スレバ容易ニ土地ヲ売却シ 祖先伝来ノ土地ヲ有スルモノノ如キハ 極メテ寥々タリ 故ニ土地ノ放買ハ盛ニ行ハルゝノ実況ナリ

 売買ノ方法ハ 売手ヨリ新旧文記ヲ買主ニ渡スヲ以テ 一切ノ権利一方ヨリ他方ニ移リシ者ニシテ 官衙ニハ何ノ届出ヲ要セズ 新旧文記ニハ何斗落若クハ何日耕ノ田畑ヲ 価何程ヲ以テ某ヨリ某ニ売渡スコト確実ナリト云フ意ヲ記シ 人ヲ選ビ口銭ヲ与ヘテ保證人ニ立テ連名セシメタルモノニシテ 之レ乃チ売渡證ナリ 如斯別ニ官衙ニ届出デザルヲ以テ租税徴収ノトキハ其所有者転移ノ為メ 大ニ不都合ヲ感ズル事アリト云フ」

 

 第十九章「韓国農業ノ振興ト本邦人ノ農業経営」

  一、本邦人ノ土地所有及内地ノ居住(246頁~)

 「邦人ノ韓国農業経営ニ対シ第一ニ念頭ニ浮ブベキ疑問ハ土地ノ所有ニアリ間行里程内乃チ居留地ヲ地点トセル我里程一里以内ニ在リテハ英韓条約第四欵ニ「英国人租界以外ニ於テ土地家屋ヲ賃借若クハ購買スルニハ 租界ヲ離ルコト韓国里程十里ヲ逾ユルヲ得ズ」ト云ヘルニ均霑シ 外人モ土地ヲ所有スルコトヲ得ルヲ以テ 売買ニ際シ其地ノ韓国監理(開港場ノ地方官)ニ地契(地券状)ヲ請求スルトキハ 地券一枚ニ付(二三段歩ニテ一枚ナルアリ五六段歩ニテ一枚ナルアリ一定セズ)二円ノ手数料ヲ要ス コレヲ仕払フトキハ茲ニ全ク所有権ノ移転ヲ確認セラルルヲ以テ 此ノ地域ノ範囲ニ於ケル外人ノ韓国土地ノ買収ハ 既ニ久シキ以前ニ於テ実際耕地ノ売買行ハレ居ルハ事実ニ於テ之ヲ徴スルコトヲ得 夫ノ欧米人ノ幾年ノ久シキ以前ヨリ内地ニ居城ヲ構ヘ 耕地ヲ買収シ 少許ナガラ自ラ耕作ニ従事セル如キ 幾度カ韓国官吏ヨリ撤退ヲ請求スルモ 行ハレタル事実ナク 請求スル官吏モ 中央政府ノ命令ニ依リ行ハレザルヲ知リナガラ 儀式的ニ退去ヲ請求シ 之ヲ受クルモノ亦儀式的ニ受クルノミ 双方トモ既ニ儀式ナリ 此式ヲ了レバ依然トシテ旧ノ如シ 殊ニ近年ハ間行里程以外ニ本邦人ノ土地ヲ所有シ家屋ヲ構ヘ定住スルモノ益多キヲ加ヘタリ 一二ノ例ヲ挙グレバ 釜山居留地ハ条約上、海ヲ境界トスル明文アルニ拘ハラズ 遂ニ其対岸タル絶影島ノ平地ニ本邦人ノ居住スルモノ甚ダ多ク 土地ノ如キ海岸ニ沿ヒタル所ハ一坪七八円ヲ以テ売買セラレ 今ハ純然タル居留地ヲ為セリ」

  一、耕地売買ノ状況(249頁~)

 「而シテ売買ノ実際ノ状況ハ 何レノ地方モ本邦人ヨリ進ンデ購入ノ交渉ヲナスニアラズ 本邦人ニシテ土地ヲ購買スルノ意志アルヲ示ストキハ 村落ノ代表者ハ耕地ヲ売ラントスルモノヲ代表シ 小ハ何十斗落ヨリ大ハ何千斗落ヲ売渡サンガ為ニ 二三里若クハ五六里ノ遠方ヨリ邦人所在地ニ来リ 買人ヲ求ムルナリ 本邦人ヨリ自ラ進ンデ此地ヲ求メタキ故ニ譲与セヨト云フガ如キ方法ニアラズ  而シテ売買譲与ハ極メテ簡単ニシテ 相互ノ交渉終レバ地券タル旧文記新文記共ニ買主ニ渡セバ其手続ヲ了スルモノナリ 最モ此以前買主ハ土地ノ面積ヲ実測シ所有者ノ真偽ヲ確メ 過誤ナキ為メ自ラ充分ノ手続ヲ尽スヲ要スルハ勿論ナリ 従来耕地ヲ買収シタル人ノ経歴談ニ依レハ 韓人ヨリ直接ニ買収シテ詐偽ニ罹リタルコトナキモ 却テ本邦人間ノ転売買ハ頗ル危険ナリト称セリ 此頗ル味フベキノ経験ニアラズヤ」

 「韓農民ノ朴訥ナル一旦売却シタルモノニ対シ苦情ヲ云々スルガ如キ実例ナキガ如シ 而シテ韓人ハ好ンデ本邦人ニ売却スルノ傾向アリ 且韓人間相互ノ売買ヨリモ稍低廉ナリ 此レ韓人間売買ノ慣習トシテ代金ハ一時ニ之ヲ支払ハズシテ三回位ニ分チ払フヲ常法トスル 然ルニ本邦人ハ凡テ直ニ全額ヲ支払ヲ以テ 金利ノ不廉ナル韓国ニアリテハ勢韓人間ノ売買ハ本邦人ニ売却スルヨリ高キヲ致スハ怪ムニ足ラズ 既ニ買収シタル土地ニハ購入者ノ氏名ヲ明記シタル杭ヲ建テ以テ所有ノ移転ヲ明ニスルノ方法多ク行ハル

 如斯クシテ得タル土地ノ耕作ニ関シテハ直ニ本邦農民ヲ移スモ不可ナシト雖 斯クテハ尠カラザル経費ヲ要スルヲ以テ 幸ニ韓人ノ多クハ売却土地ノ小作ヲ希望スルヲ以テ一時其ノ希望ニ委シ 漸次本邦農民ヲ移スノ方法ヲ採ルヲ可トセン」

 

 外国人の土地買収について、許可された範囲外でも買収が公然と行われていたことがわかる。また、土地の管理も、売買が台帳に記録されるようなものではなかった。

 

 

 朝鮮農民は朝鮮の郡衙、政府を嫌う

 朝鮮の農民が何故に裁判を嫌ったかについては前記座談会速記録で繁野秀介が次のように話している。(39頁~)

 「初め農家に陸地棉種子、「ポプラ」の挿穂、桑の苗を無償配布を致しました。然し百姓は棉の種子を飼牛に食はせ、「ポプラ」の挿穂及桑苗は温突に燃して終ふと云ふ始末で、仲々指導に従はないので困りました。

 でも其の内には附近の農民にて「マラリヤ」で苦しんで居る者が癒して呉れと云つて来るので、所員の為に買求めてある富山の薬袋から「カゼピリン」などを与へると直ぐ癒おる。腹痛の時には重曹を与へ、薬の無き時は仕方ありませんから砂糖を服用させますが之れで不思議に癒る。又た鎌で手を切たものには朝鮮焼酎で洗つて繃帯してやると云ふ様に親切に労つて遣つたものです。又た農民間の土地争を持て来る。……それは少し権力のある者が他人の土地を冒耕する。又た地主から種籾を借りて収穫時に返却しない為に直ぐ小作地を取り上ぐると云ふ様なのが主で……百姓達が之を当時の郡守に訴へると、郡庁の使丁から吏蜀、それから郡守と云ふ風に取調べに却々日数が掛る。其の上多大なる金が掛るので普通の者には容易に出訴することが出来ないのです。それを吾々内地人の居る役所、つまり棉採種事務所に持て来る。そこで公平に裁いてやり、又た現場に行つて調停すると云ふ様な訳にして遣つたものですから、農民も喜んで次第に親んで来て我々の指導に能く従ふ様に成つて参りました。」

 

 前記『朝鮮農会報』座談会の久次米邦蔵発言も見てみよう。併合以前の話である。

 「用地の買収に当つて、夫れは勿論民有地の購入でありますが、当時この辺りの土地は一反歩価格十四、五円から極上等で二十円そこそこであつたのです。然るに附近の鮮人を呼び出して買収の相談をすると、反八十円から一文も引かぬと態度頗る強硬なものです。私が如何に説明しても頑として応じませんから、其の経過を農商工部の局長……勿論鮮人でした……に話すと「それは反八十円程度でないと可愛いそうだ」と言はれるのです。このことを今度は統監府の中村(彦)技師に話すと、不当な値段だとは申しましたものゝ何分韓国政府の遣ること故、適当に取計ふより仕方ないと極りました。

 その直後に例の某局長が、日本観察旅行に出発する前日、突然来場して土地の売渡の人達を集め「売つた地代は自分が預つて居るが、急に日本に出張するので忙しいから帰つてから渡すから待つて居れ」と話したと通訳から聞きました。然るに部落民は翌日になると出て来て代金の支払ひを迫るので、私も少々変だと感づき再度支部に出頭し、会計課長に逢つて委曲を話した処が「それは不都合だ、然し一度、八十円と極めてある以上はせめて七十円程度にして局長の不在中に渡して了へ」と言ふので直ぐに現金を持って帰り、翌日鮮人を呼び出し一坪何銭何厘まで計算して彼等の面前に金を並べたのです。

 処が喜ぶと思ひの外、「約束が違ふ。そんな大金は不要ぬ」と言つて受取らぬので、約束とは何かと尋ねますと、一反歩の地代は実は二十円であると言ひますから、私が最初に二十円位いが至当だと言つた時、お前達は八十円でないと売らぬ、と頑張つたから自分が種々心配して七十円以上にして遣つたのではないか、文句を言はずに取つて帰れ、と怒鳴つて諭した処が鮮人等は「八十円で売つても自分達は二十円貰ふ丈で、残り六十円は高等官三人で分配する筈だ」と初めて真相を打明けたのには唖然とした次第です。

 然し鮮人達は後難を恐れてか、躊躇して金を受取らうとはしませんから、種々と諭し受取つて差支へない訳を話して遣ると、忽ち喜色満面に溢れ「日本の官吏は人民の金を取らぬか」と今度は奇問を発し、私が日本の官吏は人民の生命財産を保護するのが役目であると説明すると、心から「実に善政だ!」と感嘆して引揚げて行きました。」

 

 当時の朝鮮の官吏は「人民の金を奪う」のが当然のことであったとわかる。